はじめに製造業において、熟練者の“勘”や“コツ”といった暗黙知こそが企業競争力の源泉であるといわれています。しかし、ベテラン世代の大量退職や少子高齢化、技術革新の加速によって、暗黙知が次世代へ充分に継承されないまま失われるリスクが増大しています。そこで、多くの企業がナレッジマネジメント(知識管理)に注目し、DX(デジタルトランスフォーメーション)を活用しながら暗黙知を「見える化」し、組織の知的資本を強化しようとしています。本記事では、日本・ドイツ・アメリカ・中国の企業事例を中心に、製造業が暗黙知を活かすためのナレッジマネジメント手法やDX活用のポイントを解説します。理論的背景として有名なNonaka & TakeuchiのSECIモデルから、実際の導入事例、成功・失敗パターンの分析まで一挙にまとめました。「自社で熟練者の技能やノウハウをどう次世代に引き継ぐか?」「DXと組み合わせるとどんな効果があるのか?」とお悩みの現場リーダーや経営者の方は、ぜひ参考にしてください。暗黙知とナレッジマネジメントの基礎理論暗黙知とは何か?暗黙知(タシットナレッジ)とは、個人の経験や勘、intuition、熟練の技術など言語化・数値化が難しい知識を指します。たとえば「この工程では、わずかな振動や音の違いから不具合を察知できる」といった職人技が典型です。これに対して、マニュアルや図面など形式知(エクスプリシットナレッジ)は、言語や数値、画像などで記述可能な知識を指します。日本企業の知識創造理論として著名な野中郁次郎・竹内弘高(Nonaka & Takeuchi)のSECIモデルでは、暗黙知と形式知を相互に変換する4つのプロセスを提唱しました。共同化(Socialization): 個人の暗黙知同士を共有し、新たな暗黙知を生む表出化(Externalization): 暗黙知を言語・図表などで表現し、形式知化する連結化(Combination): 形式知同士を組み合わせ、より高度な形式知を創造する内面化(Internalization): 形式知を個人が反復学習して暗黙知として習得する暗黙知→形式知の「外化」が難しいことが大きな課題であり、ナレッジマネジメントではこの外化を促進する仕組みづくりが要となります。製造業における暗黙知の重要性製造業では、ベテラン熟練工の経験による微妙な加減や、長年の現場知が品質・生産性を大きく左右します。一方で言語化が困難であり、属人化しがちです。熟練工が退職すると、企業が蓄積してきた貴重なノウハウが一気に失われ、結果的に製品品質低下や生産トラブル、コスト増大などにつながるリスクがあります。従来、暗黙知の継承は徒弟制度やOJTで行われてきましたが、少子高齢化でベテランが急減し、若手育成の時間を確保しにくくなっています。ここで注目されているのが、ナレッジマネジメント+DXによる暗黙知の「見える化」やシステム化です。近年は動画マニュアル、AR/VR、IoTセンサーとAI解析などの技術を使うことで、これまで難しかった暗黙知の形式知化・共有化が進んでいます。製造業が直面する現場課題とDXの必要性技能伝承の難しさ暗黙知=熟練工の勘所は、長年かけて身についた経験知です。言語化に限界があるため、「一緒に作業して見て覚える」スタイルが伝承方法の主流でした。しかし、ベテラン世代が一斉に退職する状況下で、マンツーマンのOJTを十分に実施できない企業が増えています。結果として、若手が高い技術を身につける前に“師匠”が去ってしまい、技能のブラックボックス化が起きやすくなっています。製造プロセスで不具合やトラブルが発生しても、ノウハウを持った人がいないため最適な対処ができず、稼働停止やクレームにつながるケースも出てきています。DXによる技能継承の取り組みこの課題に対処する方法の一つが、*デジタルトランスフォーメーション(DX)*です。具体的には以下の技術が注目されています。動画マニュアル: ベテランの作業シーンを録画して教材化。文章だけでは伝わらない微妙な手順・動作を可視化でき、新人の理解を深めます。AR/VR: ARグラスを装着して作業すると、視界に手順書や注意ポイントがオーバーレイ表示されるため、紙マニュアルの参照が不要。ベテランが遠隔で指示を出すことも可能です。VRでは危険作業や特殊工程を仮想体験できるため、リアルOJTを補完できます。IoTセンサー+AI解析: 熟練者の動きや設備の稼働状態をセンサーで収集し、AIが“勘所”を数値データとして抽出。若手にもその最適値を推奨するシステムを作り、一定の作業品質を確保します。デジタルツイン: 製造ラインや設備の仮想モデルをリアルデータと連動させ、トライ&エラーをシミュレーション上で実施。ベテランのノウハウ(例えば最適な調整パラメータ)をデジタルツインに蓄積しておけば、若手もスムーズに継承できます。これらの技術を活用すると、「OJTだけに頼る」より少ない人手・時間で暗黙知を共有できる可能性が高まります。企業の生産性向上や品質安定化、さらには新しい製品・サービス開発の基盤となることが期待されます。日本における事例:トヨタ自動車、富士フイルムBI、磨き屋シンジケートほかトヨタ自動車のカイゼン文化トヨタ自動車は、世界的に著名なナレッジマネジメントの成功企業です。同社は「カイゼン(改善)」文化を通じて、暗黙知と形式知を往復させながら全社的に知識を共有しています。現場で生じたベストプラクティスを標準化し、“横展開(ヨコテン)” という仕組みで瞬時に他ライン・他工場へ浸透させる点が特徴です。加えて、問題発生時には「なぜ」を5回繰り返す「5Why分析」や、A3レポートによる課題整理を行います。ここで得られた知見はナレッジライブラリに蓄積され、再び組織全体で参照可能になるわけです。暗黙知の共有を現場の日常業務に組み込み、形式知として定着させる徹底ぶりが、トヨタの競争優位を支えています。富士フイルムビジネスイノベーションの「何でも相談センター」富士フイルムBI(旧富士ゼロックス)は、社内に「何でも相談センター」を設置。社員の疑問やトラブルを一括で受け付け、必ずダイレクトに回答する仕組みを作りました。やり取りの履歴はすべてデータベース化され、似た課題が発生した際に検索で解決策にたどり着けます。これは“誰か一人の属人的なノウハウ”を「みんなのナレッジ」に変換する好例です。相談内容が多いほどデータベースが充実し、組織の学習効果が高まる仕掛けとなっています。暗黙知が潜んでいた現場の対応策を形式知として蓄積し、手軽に検索・利用できるようにしたことが大きなメリットです。磨き屋シンジケート:燕市の職人技を共同化日本の伝統工芸や中小企業でも、暗黙知活用に成功した事例があります。新潟県燕市で金属洋食器を製造する企業が集まった*「磨き屋シンジケート」*は、各社が分散していた匠の技を共同で共有し合い、受注から納品までのプロセスを標準化するマニュアルを作成しました。金属研磨の匠技は典型的な暗黙知ですが、職人同士が互いに技術を教え合い、またITツールを使って受発注情報や進捗を共有することで、納期短縮と品質向上を同時に達成。暗黙知を相互補完する仕組みが地域ぐるみで機能した事例として注目されています。ドイツの事例:マイスター制度とインダストリー4.0マイスター制度による人材育成ドイツでは古くからマイスター制度が存在し、熟練職人(マイスター)が後進を育てる仕組みが社会に根付いています。マイスターは国家資格であり、“伝えるプロ”として教育責任が明確に位置づけられている点が特徴です。職業学校と企業内実習を結びつけたデュアルシステムとも連動し、理論と実技を両輪で磨く環境が整っています。日本企業が社内版マイスター認定を導入し、モチベーション向上と技能継承を両立した例もあります。ドイツ式の「人材を大切に育てる風土」は、暗黙知を着実に次世代へ受け渡す仕組みとして機能しています。インダストリー4.0とデジタル連携ドイツ発のインダストリー4.0は、IoTやAI、サイバー・フィジカル・システム(CPS)を駆使してスマートファクトリーを実現する概念です。この動きとナレッジマネジメントが結びつき、工作機械メーカーや自動車大手では、職人のノウハウをCAD/CAMデータやシミュレーションモデルに反映する事例が増えています。BMWやVolkswagenでは、ARグラスやタブレットを用いて組立ラインの手順を可視化し、新人でも熟練者並みの精度で作業できるよう支援。さらに社内コミュニティ(CoP:コミュニティ・オブ・プラクティス)を活用し、従業員同士が知識交換する文化が形成されています。こうした“技術+コミュニティ+制度”の複合的アプローチが、ドイツ製造業の高い競争力を支えているのです。アメリカの事例:先端技術とナレッジ共有文化ボーイング社:AR活用によるミスゼロ化航空機メーカーボーイングは、電気配線ハーネス組立作業にARグラスを導入し、作業手順を作業員の視界にリアルタイム表示するシステムを構築しました。従来は分厚い紙マニュアルを何度も見返しながら組立を行っていましたが、AR化によって人為的ミスがゼロになり、作業時間も25%短縮に成功したと報告されています。また、内蔵カメラを通して遠隔にいるベテラン技術者が作業視点を共有し、即座にフィードバックができるように。これにより新人でも複雑な工程をスピーディにこなせるようになりました。ARによる暗黙知支援が品質・安全性の高い航空機製造を支えています。IBM、シェル、フォードなどの知識管理米国企業では、ITプラットフォームを整備して暗黙知を形式知化し、組織全体で活用する風土を根付かせた事例が多数あります。IBMはグローバル規模の社員ネットワークでナレッジシェアを推進し、新技術対応や顧客サービス品質を向上。シェルやフォードは*プロジェクト終了時にAAR(After Action Review)*を実施して教訓を集約し、次のプロジェクトで失敗を繰り返さないよう徹底しています。さらに、NASA(米航空宇宙局)のLessons Learnedデータベースは、過去のミッションで得た成功・失敗事例を検索可能にし、研究者や技術者がいつでも参照できる仕組みを整備。宇宙開発という一度きりの挑戦が多い世界だからこそ、暗黙知・形式知の両方を体系的に蓄積し、次に活かす重要性が高いのです。中国の事例:急速なデジタル化と知識プラットフォーム6-1. 中国第一汽車(FAW)と三一重工(Sany)中国では政府の政策支援もあり、製造業のデジタル転型が急速に進んでいます。自動車大手の中国第一汽車(FAW)は、工場・物流・品質・財務など部門横断で知識体系を整理し、部門ごとのポータルを構築。多様な情報を「業界動向」「新技術」「経験教訓」など10種類以上の専用カテゴリーに格納し、検索性と再利用性を高めています。また建機大手の*三一重工(Sany)*は、研究開発工程を「設計」「サービス技術」「プロジェクト管理」など細分化したうえで、ナレッジマップを策定。グループ共通の知識庫と事業部別の知識庫を組み合わせる形で無駄な重複を防ぎ、必要な情報を素早く見つけられる環境を整えました。こうした大規模KM(Knowledge Management)プロジェクトにより、属人的なノウハウの散逸を防いでいます。方太(Fotile)のナレッジプラットフォーム活用中国の高級キッチン家電メーカー方太(Fotile)は、社内に統合ナレッジプラットフォームを導入して1,000名超の専門家がQ&A対応を行う仕組みを定着させました。月間ユニーク訪問率は60%を超え、社員の過半数が定期的にアクセス。累計閲覧回数は100万回を突破し、日常業務の問題解決や教育研修、ノウハウ共有がオンライン上で行われています。デジタル技術をフル活用して暗黙知・形式知を融合する典型的成功例として注目されています。成功のポイントとよくある失敗例成功要因経営層のコミットメントナレッジマネジメントは企業文化そのものを変える取り組みです。トップが熱意を持って取り組み、知識共有の価値を繰り返し訴えることで、社員も参加意識を高めます。現場主体のボトムアップ現場が「本当に必要だ」と感じる課題からスタートし、小さな成功体験を積み重ねることで社内の支持を得やすくなります。トップダウンとボトムアップを両立させることが大切です。テクノロジーを適切に活用AR/VRやAI解析、デジタルツインなど最新技術を目的に応じて使い分けます。徒弟制度的なOJTだけでは追いつかない部分をDXで補完し、暗黙知を可視化・標準化していくのが理想形です。成果の見える化・評価「不良率が○%改善」「育成期間が○ヶ月短縮」といった数値や具体的事例を社内に共有すると、モチベーションが上がり定着率も高まります。失敗パターンツール導入後、誰も使わないITシステムを導入しても、社員がメリットを感じなければ形骸化します。スモールスタートで使い勝手を検証し、徐々に全社展開するのが望ましい。必要性を腹落ちさせずにトップダウンで押し付け「業務が忙しい」「ノウハウをオープンにしたくない」という抵抗感を放置すると失敗しがち。社員の目線に立った“参加メリット”の説明とインセンティブ付与が重要です。運用ルール不備でデータが散逸データをどう分類・登録・検索するかを考慮せずにスタートし、結果的に“知の墓場”が増えるケースです。テンプレートやタグづけルール、定期的なキュレーション作業など、運用設計をきちんと行う必要があります。まとめ:暗黙知は未来を拓く“宝の知恵”製造業の各国事例を見ると、「人の力 × デジタル技術」 を組み合わせることで暗黙知を組織全体の資産へと昇華し、品質向上やイノベーションにつなげている企業が数多く存在します。とりわけベテランの熟練技の形式知化が進めば、若手の育成スピードが上がり、属人化リスクが下がるだけでなく、新しいアイデアや商品開発への応用が生まれる可能性も広がります。一方で、「システムを入れたのに誰も使わない」「形だけの導入で成果が見えず撤退」という失敗も後を絶ちません。成功企業の共通項を改めてまとめると、経営トップから現場まで“知識共有は必要”という合意形成を行う段階的に進め、現場主導の小さな成功を積み重ねるDXを含む技術ツールを“使いやすく”、具体的な運用ルールを決める成果を数値・事例で可視化し、絶えずPDCAを回すこのように、人材の知恵に光を当てる文化とテクノロジーの両輪を回すことで、ナレッジマネジメントは一過性ではなく継続的に機能します。現場リーダー・経営者へのアクションプラン現状分析: 自社の暗黙知がどこにどれだけ存在し、どんな形で属人化しているかを洗い出す短期施策: 重要工程を動画撮影する、ベテランへのヒアリングをドキュメント化する、社内SNSやQ&A制度などハードルの低い仕組みを試す中長期施策: AR/VRやIoT、AIなどのDX技術を本格導入し、形式知化を大規模に進める。デジタルツインでシミュレーションし、新製品開発や品質改善につなげる組織文化づくり: 共有した知識を“みんなで使って成果を上げる”流れを定着させ、知恵を出した人が評価される仕組みを作る今後の展望今後5~10年の間に、AIやロボット、自動化の技術はさらに進歩し、製造ラインの高度化が進むと見られています。しかし、どれほど自動化が進んでも、人間ならではの職人的な勘所や現場創発的なアイデアはなくなりません。むしろ多様なロボットやAIが導入されるほど、人間が介在すべきクリエイティブな領域—それこそ暗黙知がモノをいう領域—が際立ち、差別化要因となります。暗黙知の重要性は未来においても増すばかりです。現場力とDXを上手に掛け合わせることで、これまでにない付加価値やイノベーションを生むチャンスが広がっています。熟練工の引退、若手不足、国際競争の激化など逆風もありますが、企業としての知的財産を活用できれば、生き残りどころか新たな成長を遂げる可能性は大いに存在するのです。おわりに:暗黙知を活かすことが製造業の未来を創る製造業で培われてきた匠の技(暗黙知)は、世界に誇れる財産である一方、継承が困難な側面も抱えています。しかし、ナレッジマネジメントとDX技術を組み合わせれば、言語化しにくいノウハウを“見える化”し、組織全体で共有・活用できる道が開けます。実際に各国で多くの企業が成功を収め、企業価値の向上やイノベーション創出に結びつけています。製造現場に眠る“宝の知恵”を掘り起こし、システム的に磨き上げ、次の世代へ伝えていくことこそが、これからのものづくりを強くする最短ルートです。日頃のOJTや改善活動にテクノロジーをうまく連動させ、学んだ知見を組織の糧に変えていきましょう。その先に、より強靭で魅力的な製造業の未来が待っているはずです。参考文献・引用元リンク(抜粋)Frontiers | Managing Knowledge in Organizations: A Nonaka’s SECI Model Operationalization製造業のDXと技能伝承:ベテラン社員のノウハウのデジタル化 | newji[2022年度] 製造業のVR・AR活用法5選。DX化から技能継承まで特徴や課題を解説 | 機械商社マンの情報サイトKnowledge Management Case Studies: How Leading Companies Use Knowledge Management to Drive Successナレッジマネジメントの成功事例とよくある失敗事例を解説 | etudesAIで新人が即戦力に——熟練者の技術継承による製造現場の即応力を底上げ「熟練知能AIシステム」提供開始 | PR TIMESCase Study: Boeing Cuts Production Time with AR - AR Insider收藏!一汽、三一、方太等10大制造企业知识管理案例 (中国語)